• 辻信一

”べてる”で読み解くコロナの時代(2) 辻信一


浦河べてるの家、カフェぶらぶら 2010年

<ネガティブ・ケイパビリティ>


社会全体がとても性急になっている。我慢ができなくなってきている、というか。精神医で作家の帚木蓬生さんが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ」という大事な言葉がありますね。この「分からないことに耐える能力」というのが、今すごくすり減っちゃっていて、「ポジティブ・ケイパビリティ」、つまり、問題に答えを出したり、処理する能力ばかりが強調される。小さい子どもの時から、どうやって合理的に、効率的に問題を解決するか、答えを出すかという能力ばかりを鍛えられていて。でも、考えてみたら人生って別に認知症や統合失調になっていなくたって分からないことだらけだし、問題のうち解決できるものなんてほんの一部すよね。そういう未解明、未解決の状態にもしも僕らが耐えることができなかったら、もう人生そのものに耐えられないということですよね。

政治の世界も、トランプ大統領じゃないけど、非常に短い分かりやすいセンテンスや、わりきった物言いで、何回か断定的に言うだけで全部通ってしまうみたいなのが、世界に増えてませんか。民主主義が、スローで、分かりにくく、わりきりにくいものだとすれば、人々はだんだんそれに耐えきれなくなってきていて、それがまた人々を専制や全体主義の方へ向かわせているんじゃないかな、と。

・・・昔のことを考えると、例えば、江戸時代、今のような科学も技術もほとんどない中で疫病も起こるし、火山が爆発する、地震がある、津波がある、水害がある。それと火事が非常に多いですしね。そういうようないろいろな災害が割と日常的に、それこそ慢性的にあるようなところで、人々はどう生きていたのか。現代人だったら、心配で不安で生きていられないような状態で、果たして人々は本当にいつも不安におののいていただろうか、と考えてみる。それは違うと思うんですね。

つまり、リスクを一つずつ潰していって、いろいろな保険をかけて、安全安心を手に入れる。そういう現代的な考えこそが幻想だと思うんですね。そうやって生きていこうとすればするほど、実は不安や恐怖は高じていくんじゃないかと。僕らがコロナの時代に直面したのは、そういう幻想の中に生きていた自分自身の姿だったということですね。

<コロナからのメッセージ>


コロナ感染の早い時期に、世界のあちこちから、「コロナからの手紙」とか、「ウイルスからの手紙」といった詩やメッセージが発信されて、拡散したんですが。・・・僕が見たいくつかに共通しているのは、ウィルスが現代の文明人に向かって、「止まれ」「よく見よ」「よく聞け」と命令することです。これまで警告を何度出してもあなたたちは止まらず、現実にちゃんと向きおうともしなかった。だから、私(=ウィルス)はこのパンデミックを起こしたんだ、っていう筋立てなんです。こういうのを発信したのも、受け取って拡散していたのも多くが若い世代だったと思います。これって、要するに、自然界の視点から世界を見るということですが、僕はこれを単なる喩え話ですませるわけにはいかないな、と思うんです。一度、みんなで、大真面目に、コロナが伝えようとしたメッセージは何なのかということを、考えようじゃないかと。そういう思考実験。それが世界中で起こっていたような気がするんですよ。これ、実は一つの意識のムーブメントじゃないか、と僕は思うんです。

今日、こうして向谷地さんと話をしているのも、実はそういうムーブメントに僕たちなりに参加しているってことじゃないかな、と僕は思っているんです。コロナからの手紙でも自然界からのメッセージでもいいし、天からの、神からの声でもいい。それをそれぞれの場所で、それぞれの立場にいる人たちが真剣に聞き止め、受け止めて、自分なりに、それに対してどう応えるかということを模索する・・・。


・・・その意味では、いろんなことをあぶり出してくれるコロナの時代というのは、本当に良い機会なんだと思います。僕どこかに書いたんだけど、正直言って、「コロナどころじゃないんだ」と言いたい。コロナ危機というけど、コロナなんかより重大な危機に満ち満ちているわけですよ、世界は。大気汚染だけだって毎年、七百万とかという人が死んでいるわけですよ。コロナ対策の都市封鎖などのおかげで大気がきれいになっただけで、何十万の人の命が救われたとかね。コロナ危機っていう前に、僕たちはもうすでに後戻りできないぐらい危機的なところに入り込んでしまっている。そのことに今気づかなければ、と思います。

「コロナからの手紙」じゃないですが、僕たちはここに潜んでいるメッセージみたいなものを、しっかりと受けとめる。そして、じゃあこれから僕たちはどういうところをどう変えていったらいいのか、ということに知恵をしぼり、取り組んでいきたいなと思います。今日は、オンラインではありますが、久しぶりに向谷地さんをお迎えし、べてるの方々にも登場していただいて、カフェゆっくり堂を開くことができました。

向谷地さん、どうもありがとうございました。向谷地さんとべてるの家がこれまでつくり、蓄積してきたものが、いよいよこれから役立っていくと信じています。



<弱さを真ん中に>


(以下、対談後の質疑応答で、7月末に発覚した「ALS患者嘱託殺人事件」についての思いを訊かれて)


今日ずっと向谷地さんとお話をしてきたことですが、コロナ危機の中で気がついてみたら、僕らって社会って、もう溜めのないところまで来てしまっていた。経済成長の名の下に、それまで社会がそれなりに蓄えていた相互扶助の余力みたいなものを削ぎ落としてきたということに気づいて、僕らは今暗然としているんじゃないかなと。その最中にあの事件がああいうふうに発覚したということは、これはただの偶然じゃないな、と感じます。二人の医者が逮捕されましたね。安楽死を選ぶという本人の意志があるように見えるという点では相模原事件と一見違うんだけど、彼らの考え方やものの言い方も、植松氏同様、ある意味、合理的なんですね。非常にシンプルだし、分かりやすい論理。それに対して、同じ論理のレベルで答えるということは簡単じゃない。ああいう一見揺るぎがない確信に満ちた言葉を前にした時、多くの人たちの心がなびく。


説得的に聞こえちゃうんですね。優生思想は合理主義ですから。LGBTは非生産的だからと、公的支援を否定した議員がいたけど、経済合理性の論理が人間性の中に浸透してしまっている。でも、これもまた、社会がそういうところまで来てしまった、ということの表現だとぼくは思うんです。僕たちはいつの間にか、「自分の命をどうしようと自分の自由だ」とか、「生きる価値のない命を生かしておく必要はない」とかという考えを、自分のうちに住みつかせてしまっていた。

去年参議院議員になったALS患者の舩後靖彦さんもこう言っていますね。発症から2年くらい「死にたい」と思い続けていた自分を振り返って、それは自分の中にある「内なる優生思想」が「死にたい」願望にすり替わっていくのかもしれない、と。そのすり替わりが起こらないような、あるいはそれに歯止めをかけるようなメカニズムが本来のコミュニティや社会の中にはあって、それが自然免疫みたいに働いてきたのに、今ではその免疫がなかなか働かない。僕らの社会は本当に来るところまで来てしまったんだなと思わされる。自分の内なる優生思想に向き合いながら、社会の中から優生思想的なものを少しずつ減らしていくしかないと思います。そういう覚悟を持たないと。

さっき向谷地さんと話していたように、僕らの人生というのは解決することのできない困難、苦労、問題に満ち満ちてますよね。そのうち解決できるとか、あるいは処理できる、答えがある問題なんていうのは本当に数少ない。でも少し以前までの社会には、答えがないなりになんとか耐えていく、というネガティブ・ケイパビリティ的な力がそれなりにあって、個々人を放り出したり、弱者を切り捨てたり、自己責任だといって突き放したりはしなかった。少なくとも、そういう建前はあったし、そういう心情を人々は共有していたんだと思う。ところが今では社会全体が解決できる問題にばかりフォーカスして。問いと答え、問題と解決の間をどんどん効率化してしまう。その結果、苦労の多い、問題だらけのこの人生を生きる力を、僕らは失ってきた。非常に脆くなっていると思う。

だから、こういう事件をきっかけにして、もうちょっと真剣に、困難や弱さを抱えたもの同士がどうやってコミュニティをつくって、一緒に生きていくかということを、初心にかえったつもりで考え直さないといけない。



”ミスターべてる”早坂潔さん 2010年

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