• 辻信一

無限の愛 サティシュ・クマールの言葉 

最終更新: 2月28日

年の初めにレコード、カセットテープ、CDなどの整理を始めた。まずCDを一か所に集め、一番多いジャズを棚にアルファベット順に並べた。以来、毎日2枚づつ聞いていくことにして、五日前に、ナット・キング・コール&ナタリー・コール親子やオーネット・コールマンを過ぎて、やっとジョン・コルトレーンに入った。まだ数日はコルトレーンに留まらなければならないし、やっとCからDに入ったと思ったら、マイルス・デーヴィスでまたしばらく足止めを食う。などと贅沢なことを言ってないで、一日一日を、そして音楽を聴く一刻ずつを楽しむことだ。ぼくの世代の多くの人と同じように、トレーンやマイルスにはぼくの過去が詰まっている。いや、正確にはぼくの過去が彼らの音楽で彩られているのだが。


さっきまでコルトレーンの「A Love Supreme至上の愛」を聴いていた。「しじょうのあい」と言えば、「市場の愛」しか思い浮かばなかったり、そうでなくとも、「私情の愛」とか「試乗の愛」とかしか思い浮かばない人にも、ぜひ耳を、心を傾けてほしい音楽だ。


というわけで(どういうわけ?)、サティシュの「Love Unlimited無限の愛」をお届けしよう。著書「Elegant Simplicity」の中から二節、ぼくの拙訳で。


昨日、一昨日となぜか、オンラインのイベントで言わせてもらったのだが、学者として、環境活動家として、ぼくたちに今、一番問われているのは、「悲観主義」や悪しき「現実主義」や「性悪説」の呪縛から、自らを解き放つことではないか。楽観主義、理想主義、そして性善説の旗を掲げよう。まだ間に合う。




<サティシュ・クマール 無限の愛>


友情、それは存在の基盤


友情には期待がない。何ごとも期待どおりにいくことはない。だから期待はしばしば失望につながる。受け入れることを習うべきだ。何かにとらわれることなく、淡々と進む。こだわることなく、縛られることもなく。執着を離れれば自由になれる。たとえば、私が友情に動かされて世界の変革のために働くとき、自分自身の友だちでもある私は、その自分自身をよりよいものへと変えるために働いていることになる。友情には宇宙的な意味がある。より大きな自己へと意識を拡張していけば、自己は宇宙そのものとなる。この肉体のなかにある自己は、その大宇宙のミクロ版。これが仏教の奥義である友情の意味だ。


友情の畑に、謙虚の手で、愛のたねをまく。優しさの堆肥をやり、寛容の水で、魂の土をうるおす。日々私たちが受けとるいのちの贈りものに、こころの底からの感謝の気持ちをもって、ありがとうと言おう。友であることは甘美で、友をもつことは天の恵みだ。


ロシア人かアメリカ人か、ユダヤ人かアラブ人か、シーア派かスンニ派か、共産主義側か資本主義側か、・・・に関わらず、私たちはみな第一義的に人間{ヒューマン・ビーイング}である。この第一のアイデンティティの前では、そのほかのあれやこれやは二義的だ。だから、私たちの個人的、政治的、経済的、そして生態学的な関係は、友情という基盤の上につくられなければならない。


友情だけが、人間と人間とをしっかりつなぐことのできる接着材。友情の哲学は、私たちがみなつながり、関係し、依存しあっていることを教えてくれる。


ブッダが最後の呼吸をしていたとき、弟子のアーナンダはこうたずねた。「どのように生まれ変わることをお望みですか?」。ブッダはこう答えた。「予言者でも、先生でもなく、単に慈しむ者(マイトレーヤ)として。友だちとして生まれ変わりたい」と。友情のあるところにはいつも神がいる。神は友だちの姿をとってあなたのもとにやってくる。


あなたは私のことを現実離れした理想主義者と呼ぶかもしれない。そのとおり、私は理想主義者だ。ただ、あなたにたずねたい。「では現実主義者たちは何を実現しただろう。戦争、貧困、気候変動?」と。現実主義者たちはもう十分すぎるほど長いあいだ世界に君臨してきたが、万人のための平和や繁栄を築くことに失敗した。ならば、そろそろ理想主義者にもチャンスを与えようではないか。そして、友情を、人生や世界を設計するための原理としてみるのだ。もちろん、100%うまくいくことはないだろう。理想郷(ユートピア)は無理だとしても、友情の力を最大限発揮させ、争いの力を最小限にしよう。敵をもつまい、つくるまい。そして敵になるまい。これは試してみる価値がある。「よき関係」をつくるには、友情にまさる道はない。だから、怒るまい、怒らせまい。


敵意、争い、けんか、怒り、孤立、寂しさ・・・。これらは人生をあまりに複雑にし、混乱させる。無垢な友情という土台の上につくられたよい関係性は、人生をシンプルでわかりやすいものにする。もちろん、友情とは、単なる礼儀正しさ、表面的な優しさ、そつのなさ、人当たりのよさのことではない。関係とは義務ではない。それはむしろ、存在そのものの基盤だ。関係性と友情は、正真正銘の、根源的{ラジカル}な愛から生まれる果実なのだ。


ラジカル・ラブ


キリストは言った。「あなた自身を愛するように、隣人を愛しなさい」。「あなた自身」という言葉が鍵だ。他者を、自分自身を愛するように、愛する。そこにほのめかされているのは、人を愛することができないのは、自分自身を愛していないから、ということ。他者というのは、自分の延長に過ぎない。自分を愛することはわがままではない。自分を愛せない者が、どうやってだれかを愛せるだろう? 自分がその人に愛されることを期待できるだろうか?


ありのままの自分を受け入れることと、その自分を愛することなしに、ありのままの他者を受け入れ、愛することが可能となる。これが「あいだ存在{インタービーイング}」のありようだ。私たちはみな相互に依存しあう存在。お互いどうしからできている。だから、自分を愛するということは他者からの分離や孤立を意味しない。


自己愛{セルフ・ラブ}はうぬぼれ、傲慢、我欲とは関係ない。利己的な「私」だけがその周りに壁をつくる。名声、人気、評価を求め、特権や権力、支配を求める。

土(ソイル)が果実や花や食べものの源であるのと同じように、魂(ソウル)は知性、想像力、愛、共感を育てる土壌である。土は、その一方で、雑草やとげなど、ザラザラで、ゴツゴツで、ギザギザの、不快に感じられるものも生みだし、魂は不安、悩みや苦しみを生む土壌ともなる。私たちはそのすべてを受け入れ、そして愛によって変容させなければならない。自己愛、隣人愛、人間愛、そして自然への愛は、切れ目なく連なっている。自分自身にもほかの人々にも親切であろう。だれも苦しまなくてすむように。これが「ラジカル・ラブ」、世界を変える愛だ。


ラジカル・ラブ。それは「愛する人がほしい」ではなく、「愛する人でありたい」。「愛している」と言うとき、あなたは無条件の愛を差しだしている。


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