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遠回りして村にたどり着く 『須恵村』の出版を祝って


昨夜(6月9日)、「須恵村の協同の文化から学ぶ~幻の名著『須恵村』(エンブリー著)の新・全訳を記念して」というオンラインイベントを開催した。訳者の田中一彦さん、出版元の農文協の担当編集者、甲斐良治さんをお招きし、イベントを企画したぼくが聞き手を務めた。楽しく、学びに満ちた時間となったが、その中身はまた文字起こしして、共有したいと思っている。このイベントに先立って、ぼくが書きつけておいた文章があるので、まずはそれをここで紹介しておきたい。


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アメリカをはじめ、世界のあちこちで名著として知られる『須恵村』の新・全訳がついに出版された。訳者はベテランのジャーナリストであり、田中一彦さん。長年の研究に裏打ちされた、正確で丁寧な、読者にはありがたい好訳だ。


この訳書の出版がぼくにとってこれほど感慨深いのには、ぼくが訳者と個人的に親しくさせていただいているということ以外にも、いろいろな理由があって、説明するのにはちょっと手間がかかる。


まず、原著“SUYE MURA: A Japanese Village”(ジョン・F・エンブリー著、シカゴ大学出版、1939)が1930年代の日本の一村落についての民族誌として、1939年の出版以来、高い評価を受けてきた人類学史上に残る名著だということがあり、にも関わらず、この日本でほとんど知られざる存在だったということがある。その辺の事情については訳者が「前書き」で説明してくれている。まず、原著についての高い評価について;


・・・同書は、エンブリーが日本育ちの妻エラとともに、一九三五(昭和十)年十一月からまる一年、 熊本県球磨郡須恵村(現あさぎり町)に滞在し調査した記録である。初版刊行と同時に、戦前では 外国人による唯一の人類学的な日本農村研究書としてベストセラーとなり、「須恵村」の名を世界に知らしめた。アメリカで好意的な書評が相次いだのはもちろん、出版一年後に農村社会学者の鈴木栄太郎が「外国人としてこれ以上に日本農民の心を読みとる事はおそらく望み得ないであろう」と喝破したように、日本でも高い評価を得た名著である。

 例えば、人類学者の今西錦司は、戦後間もなく行った自身唯一の国内調査に当たり、『須恵村』を参考にしたことを明かしている。また、民俗学者の宮本常一、文化人類学者の梅棹忠夫、哲学者の鶴見俊輔ら著名な研究者が『須恵村』の先駆性に言及している。(1頁)


しかし、それほどの評価を受けた本が、なぜ、当の日本で知られていないのだろうか。これについては、訳者はこう説明する。


邦訳は、一九五五年にようやく関書院から出版された。植村元覚・富山大学経済学部助教授(一九一六〜一九九七)訳による『日本の村落社会 須恵村』である。・・・唯一の邦訳として敬意を表した上でだが、植村訳には、おびただしい誤訳があることを指摘せざるを得ない。しかも、原著の五分の一、七十ページほどが割愛された抄訳であり、読者に多くの誤解を与えかねない内容となっている。桑山敬己・関西学院大学教授が「残念ながら、刊行後七五年以上の時が経とうとしているのに、『須恵村』はいまだにその全容を日本人読者の前に現していない。 それだけでも、再見/再考する価値は十分あるだろう」(二〇一六年・・・『日本はどのように語られたか』)と、全訳の必要性を強調した通りである。(2頁)


しかし、それほど、著名人が注目し、その全訳が待ち望まれていた本なら、なぜもっと前に出版されなかったのか、と思われる方もいるだろう。実は、この問いに答えることは容易ではない。この問いに関わってくるのは、今回の新・全訳が、人類学や日本研究、農村研究といった分野に属する専門家ではなく、元新聞記者であり、いわば在野の研究者である田中さんによってなされたという事実である。しかも、田中さんは、この10年余り、彼独自の筋道をたどって、旧須恵村(現あさぎり町)に移り住んでの自己流フィールド調査や、綿密な文献調査を含む、ユニークな研究を自分自身で編み出してきた。今度の翻訳は、すでに刊行され、高い評価を受けた二冊の自著『忘れられた人類学者 エンブリー夫妻が見た日本の村』と『日本を愛した人類学者 エンブリー夫妻の日米戦争』を経て、田中さんが行きつくべくして行きついた、彼の研究の新しい地平であり、成果といえるだろう。






ぼくは今回の『須恵村』新・全訳の刊行をもって、ぼくは「須恵4部作」が完成したのだと思っている。『須恵村』新・全訳と田中さんの二つの著作に、エンブリーの妻として共に須恵村での現地調査を行なったエラ・と文化人類学者ロバート・J・スミスによる共著『須恵村の女たち』を加えた四冊である。これまで『須恵村』があまり陽の目を見なかった日本で、田中さんは、新しい分野をほとんど独力で切り開いたのだ。この四部作がこれから多くの若い研究者たちにとっての糧となるに違いない。


大切なことは、二作を生み出した研究の積み重ねによって田中さんが到達した深い洞察があればこそ、彼は『須恵村』という古典を全訳することの意義を十分に理解しえた、ということである。それは、逆に言えば、あれほど重要だと言われてきた本が、しかし、八十年以上を経た現代に翻訳されるだけの価値があるということが、実は他の誰にも十分には理解できていなかったということにもなるのではないか。


実は、ぼくもまたその「十分に理解にできていなかった」者の一人だ。


ぼくと『須恵村』との縁は、決して浅いものではない。まず、その原著『SUYE MURA』は、七十年代の終わりから八十年代にアメリカやカナダの大学や大学院で勉強していたぼくがよく目にする本だった。教科書売り場で手にとってパラパラと目を通すことはあっても、それ以上の興味を感じることはなかった。しかし、81年にコーネル大学の大学院で文化人類学を専攻することになり、しかも当時人類学部の学部長だった日本研究者ロバート・J・スミス教授がぼくの暫定的な指導教官となったことで、『SUYE MURA』はぼくの必読図書の一つとなった。


告白すれば、残念ながら、当時のぼくにはこの本の面白さが全くわからなかった。第一に、それはぼくの態度の問題だった。アメリカまで来て、しかも異文化を研究するはずの人類学を専攻しながら、なんで日本研究者のもとで、日本のありきたりの村についての本を、しかも苦労して英語で読むことに、時間を費やす必要があるのか、ぼくには到底、納得できないのだった。


人類学専攻の大学院生はできるだけ早く、自分のフィールドを決めることを期待されている。アメリカ人の院生の多くは、早々とラテンアメリカやアジアなどをフィールドと定め、長期現地調査のために必要となる語学の習得に励む。しかし、外国人の院生の場合は、出身国へと調査のためにUターンすることが多い。別にそういう決まりがあるわけではないのだが、ぼくにはこれがアンフェアに思えた。アメリカ人はどこか遠い、思い切りエキゾチックな場所へと出かけてゆくのに、外国人は自分に馴染深い社会へと舞い戻る。例えば、ネパールの少数民族出身の院生が、その少数民族の調査に携わる、というふうに。そして、アメリカの学位を持ったエリートして、故国の大学に教職を得る。今思えば、それはそれで十分意味深いことなのだが、当時のぼくにはこれが一種の差別のように感じられたのだ。


当時のぼくには、日本に帰る気などなかった。そしてぼくはこう思った。きみたちアメリカ人がアマゾンの奥地に出かけていくように、ぼくはここ、アメリカにやってきたのだ。これこそがぼくのエキゾチックだ。ぼくはアメリカ社会をこそ、きみたち“アメリカ人”をこそ、研究してやる、と。後になってそのことを思うたびに、恥ずかしくて冷や汗が出る。


そんな態度を身につけていたぼくだから、『SUYE MURA』にも興味をもてないし、スミス教授との距離も広がっていった。ちょうどその頃、そのスミス教授と、かつて故エンブリーの須恵村現地調査に同行したエラとの共著『The Women of Suye Mura(須恵村の女たち)』が出版されたことを知ったが、ぼくがそれを読んで感銘を受けるまでには、さらに数年の時間が流れる。


カナダのモントリオールを中心とする現地調査が進み、博士論文の準備にかかろうとする時期が来て、いまだに正式に指導教授が決まっていないというのは、ぼくくらいだったろう。スミス教授に、「他の教授にしてくれてもいいんだよ」と言われて以来、キャンパスに戻ってさえいなかった。家族に会うために一時日本に帰国したぼくは、モントリオールでの大学時代に授業を受けたご縁で、その後もいろいろお世話になっていた鶴見俊輔さんを京都に訪ねる機会があった。そのとき、どういう話の文脈だったかは忘れたが、鶴見さんがスミス教授のことに触れて、きみはいい指導教官をもっている、彼の『須恵村の女たち』は素晴らしい仕事だ、と言ったのである。そう言われて、恥ずかしい気持ちがしたことだけは覚えている。北米に戻ったぼくは『須恵村の女たち』を読み、コーネル大学にスミス教授を訪ね、正式に指導教官として博士論文の審査委員会の委員長になってくれるようお願いをした。彼は微笑んで、「もちろん、喜んで」とだけ、言ってくれた。


遠回りの末、『須恵村の女たち』を経て、ぼくはようやく『須恵村』にたどり着いた。再会とはいえ、それは全く新しい出会いと同然だった。そしてそれからまた30数年を経て、ぼくは今、須恵村との3度目の出会いを経験している。新・全訳というこの出会いもまた、新鮮で、ワクワクするような新しい出会いに満ちている。

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