• 辻信一

「無名なものの詩と革命」  菊谷倫彦の言葉



10月11日に永眠された菊谷倫彦さんの『無名なものの詩(うた)と革命』(菊谷文庫、2015)を読み直し、多くを学び直させていただいている。吉本隆明の著作を丹念に、そして敬愛の念をこめて丁寧に読み解き、さらに、孫の世代の読者としてそこから先への展望を開いていく、これは菊谷さんがなし遂げた重要な仕事だと改めて感銘を受けている。ここではそこへの入り口を示して、本書へとみなさんを誘いたい。「無名なもの」という著者のキーワードには、吉本さんの「大衆の原像」という概念やシモーヌ・ヴェイユの「匿名性」を、引き継ぎ、それをさらに現在から未来へとその可能性を広げていこうとする意志が込められている。同時に、この言葉に、菊谷倫彦という若き哲学者の謙虚さと優しさが、そしての「降りてゆく」生き方を実践するアクティビストとしての、生活者としての姿が見事に表現されている、とぼくには思える。

以下に、そのこの本の第一章から、特に重要だと思われる文章を抜き出して、並べてみたい。




無名なものからの光—吉本さんが大切にしていたこと

吉本さんが本当に大切にしていたことは何か。それを一言でいうと、“ただ存在するだけの存在が一番価値がある”ということだと思います。何か意味があったり、何かと意味づけられたりしていない、ただそれだけの存在。そういう存在が一番大切で貴重なんだ、ということだと思います。


シモーヌ・ヴェイユの言葉

人間だれにでも、なんらかの聖なるものがある。しかし、それはその人の人格ではない。それはまた、その人の人間的固有性でもない。きわめて単純に、それは、かれ、その人なのである。(吉本『甦えるヴェイユ』の中のヴェイユからの引用)


ヴェイユの言葉 II

人格の表出のさまざまの形式であるにすぎない科学、芸術、文学、哲学は、華やかな、輝かしい結果が実を結び、それによっていくつかの名前が数千年にわたって生きのびる、というある領域を構成している。しかし、この領域を越えて、はるかかなたに、この領域とは一つの深淵でもって距てられた、もうひとつ別の領域があり、そこには第一級のものがおかれている。それらのものは本質的に名をもたない。

その領域にわけ入った人びとの名前が記録されているか、それとも消失しているかは偶然による。たとえ、その名前が記録されているとしても、それらの人々は匿名の世界へ入り込んでしまったのである。(原典『ロンドン論集とさいごの手紙』)


ヴェイユの言葉 III

・・・この引用は、原典ではこう続きます。「真理と美は、この無人格的な名をもたぬものの領域に共存している。この領域が聖なるものである。」

ヴェイユは、「匿名」あるいは「無人格な名をもたぬもの」と言っていますが、それを私なりにいいかえると、“無名なもの”という言い方になります。つまり、存在の無名性が本当の意味の聖なるものである、ということです。ヴェイユは、その領域に真理と美があると言い切っています。


吉本と「無名性」

吉本さんは、無名なもの、あるいは存在それ自体のあり方を大切にしました。わかりやすく言うと、人が無名から有名になったり、名を成したりすること。あるいは人が無名なものから、意味をもつ存在になること。そうしたあり方を一番価値がないものとして否定しました。知識があることが良いということを否定し、意味があることの良さを否定したのです。

これは、普通の価値観とは正反対の捉え方だと思います。


有名性と「意味」

私たちの暮らしは、たいして意味を与えられていない多くの部分で成り立っているといえます。私たちは、むしろ、意味のある時間や意味について考えている時間の方が少ないのです。もっと正確にいうと、意味について考えている時間は、本来の人間性のあり方からもっとも外れてしまっている時間である、といえるのではないでしょうか。こうしてみると、私たちの日常そのものが無名性に彩られていることが想像できるように思えます。有名性や意味は、むしろ人間本来のあり方からもっとも遠いところにある。これが吉本さんの考えであり、この本で進めていきたい基本的な考え方でもあります。


吉本隆明の言葉

市井の片隅に生まれ、そだち、子を産み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。・・・市井の片隅に生き死にした人物のほうが、判断の蓄積や、生涯にであったことの累積について、けっして単純でもなければ劣っているわけでもない。これは、じつは私たちがかんがえているよりもずっと怖ろしいことである。『カール・マルクス』


無名性という価値

・・・無名なものとしての私たちが、あまり意味の与えられていない多くの時間(場合によっては無意味といえる時間)によって成り立っていることを見ました。しかし、そのことは、本当に無意味で、無価値なことではありません。むしろ逆に、最大限の価値があることである、という点が大切だと思います。

 何かと意味づけられていない私たちのあり方は、動物や植物的な存在と結びつく本質的あり方を示しています。それを私なりのことばでいうと、<自然>ということになります。


「自然」

食べて、眠り、子を産み、育てるという、一見なんでもないような営みは、太古より人間や植物、動物が繰り返してきた、底の厚い、根拠のある営みともいえるからです。そこには、存在の理想的あり方、という問題も関わってきます。むしろ、意味によってしか捉えられないあり方の方が、本質から離れたあり方といえます。意味や無名性へ向かう存在のあり方は、<自然>(存在の理想的状態)から逸脱するからです。

無名なものというあり方は、ことばによって捉えることが難しい存在です。そのため、一見、無意味で無価値なようなもののように思えますが、ことばによって捉えられないその存在の内側は、本当の豊かさに満ちています。存在のかけがえのないリズムや呼吸が刻まれ、固有性が息づいている世界が広がっています。無名なものの存在が一見無意味に見えるのは、ことばによって捉えづらいからだといえます。その存在をことばでとらえるにはどうしたらいいか、そして、その存在を内側から見たときに広がっている豊かさの風景については、あらためてふれたいと思います。


知識と知恵

・・・知識を得ることは、私たち本来の自然なあり方(理想的状態)を犠牲にして成り立っているからです。いわば、無名なものの価値や豊かさを損なうことで成り立つあり方だからです。そこで失われる豊かさとは、私たちが本来もっている存在の呼吸やリズム、息遣いといった固有性そのものです。

大衆の原像というあり方の本質は、知恵とは関わりますが、知識とは関わりません。勉強し、知識を得ることで知的に上昇することは、意味や有名性の度合いが強くなることです。それは、無名性とは反対の方向です。いいかえれば、人間の本質といえる無名なものの存在のやり方とは真逆の方へ向かうということです。

無名なものの存在というあり方が関わるのは、むしろ沈黙です。コミュニケーションが上手なこと、知的である(知識量が豊富である)ということの反対なのです。

・・・話さない無名なものというあり方は、価値という考えと結びつきます。


価値の源泉としての沈黙

こうしてみると、無名性と日常性は、ともに<沈黙>によって成り立っていることがわかります。吉本さんの<大衆の原像>の本質は<沈黙>によって成り立っています。

私たちは沈黙しながら、暮らしを営み、他人と関係を築きながら、ある種の幻想(制度など)を支えています。つまり、暮らし(日常や制度)は、沈黙する私たちによってつくられ、支えられているのです。


転向

吉本さんは『転向論』のなかで、日本における一般の大衆が生きている日常性という根拠を考えられなかった知識人を批判しました。大衆の日常性を捉え切れず、そこから離れていってしまうところに、知識人の転向の問題が生まれると考えたのです。


幻想と観念の型、あるいはマインドセット

幻想という観念は、人間の日常性の根底を規定しています。ある意味、人間の発想の型を規定しているのです。そのため、人間は今ある幻想(観念)の型を、自明のもの、不変のものとして考えがちです。国境、国家、社会制度は、その典型です。しかし、その発想の型を破る、新しい発想を見いだすこと。それが私たちの課題である、というのが、吉本さんの仕事の根本にあるように思えます。それはつまり、理念や理想(ヴィジョン)の創造・発明です。それは、未来の世代が生きる、あたらしい、より良い理念(理想)を生み出す、ということであり、私たち自身の日常の根底をつくり直す、ということでもあります。


吉本隆明の言葉 II

有名な吉本さんの文章を引用します。

「(敗戦によって)心の中は生きていることの恥ずかしさでいっぱいであった。なぜ、世界は停止して空白なのに、笑ったり食べたり、作業をしたりしているのだろう。そういうことが合点がゆかなかった。・・・私が世界がひっくり返るほどの事態を感じているのに、なぜ空はこのように晴れ、北陸の海はこのように静かに、水はこのように暖かいのだろう。工場は昨日とおなじようになぜ在るのだろう。こういう疑問が頭の中をいつも渦巻いていた。」「戦争の夏の日」『背景の記憶』

いわば、敗戦を突きつけられた吉本さんは、人間の幻想(国家という幻想)が破れたことを感じたのだと思います。人間の共同の幻想がなくなった、自然そのもののリアルな世界を突きつけられたのかもしれません。そのとき、吉本さんをそれまで動かしていた、日常の根底(国家と言う観念)は崩れ去ってしまったのだと思います。それでは、人間にとって日常とは何なのか、私たちを支配している観念の世界とは何なのか、国家とは何なのか、そのことの解明が吉本さんの戦後の仕事だったと思います。




日常性という根拠

・・・それは、人間が生きている「根拠」の問題と関わってきます。その人が生きている根拠とは何か。それが人間個人にとっての日常性の問題だと思います。生きる根拠が変われば、日常も変わります。その根拠が変わっていくことの基盤を考えることが、本質的な変革の理論だと思います。それは、人間が無意識に営んでいる日常と深く関わっています。


無名性と自然

・・・もう一つ、より本質的な視点があります。深く掘り下げていくと、台頭してきた無名なものの力とは、無名なもので溢れるこの世界の「自然」そのものの力の表れである、と言う点です。                


吉本さんの世界観は、「こころ-ことば-幻想」の三つの層で成り立っています。人間の身体と結びついた表出の働きが「こころ」と考えられますが、なかでも、とくに内臓的な部分と結びついた表出の働きが「こころ」(=自己表出)とみなされます。人間には、内臓的な働きと、脳に結びついた体壁系や神経の働きの二種類があると吉本さんは考えます。その二つの動きが組み合わさって、ことばが生まれ、幻想(=観念)が生まれます。いわば、身体に基づいた表出(=こころ)によってことばが生まれ、観念(=幻想)が生まれます。そして、人間はその観念の世界を生きています。


存在と観念の「あいだ」

存在と観念の間には、観念になる以前の「こころ」の世界が存在します。存在自身への観念もそこから発生します。いわば、環境や存在そのものによってつくられ、触発される世界。観念のような明確な形になっておらず、まだ曖昧な部分も残す「こころ」の世界です。それは、存在と観念の間にある世界です。       


存在倫理

「存在倫理」は、存在すること自体から存在自身に与えられる、倫理の原型となる力ともいえます。これらは、当初の幻想論では捉えづらかった、観念にとっての無意識の部分です。

・・・その世界は、観念によって自分を外に表していく目に見える世界(=外在化された世界)ではなく、自分自身の大切な部分が形成される目に見えない世界(=内在化された世界)です。それを補うことで、吉本さんの仕事は、「生きているとは何か」をより広く捉えられるようになったと思います。


異和

吉本さんは、いかにして人間個人が「個」としての特有の資質をつくりだすのか、というテーマに取り組みます。その鍵となるのが、「異和」という概念です。吉本さんは、人間だけでなく、すべての生物が個体として存在すること自体が、周囲に対する一つの「異和」であると考えます。「異和」というのは吉本さん独特の概念ですが、わかりやすく「周囲への異和の感覚」と捉えてもよいと思います。つまり、周囲の環境や他人、集団と溶け込んだ存在として個体を考えるのではなく、それらと相容れない領域をもった独自の存在として個体の発生と存在を考えるのです。

異和 II

しかし、それだけでは、個人の得意さが際立つだけで、「病」(病的資質)の治癒に向かうだろうか、という疑問が残るのです。個人を生み出した「異和」という現象は一つのひび割れとも考えられます。人間が生まれるときに母の体内から外界へ出てくる衝撃も、一つの「異和」として捉えられると思います。・・・しかし、人間はその後の生き方で、自らの最初の衝撃である「異和」という発生のひび割れを埋めていく努力をしていくのではないでしょうか。

・・・吉本さん自身、晩年の仕事で、「異和」の緩和、「自然」の回復と言うテーマに取り組んでいるように思えるのです。


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