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自然農という生き方 川口由一の言葉

今日の朝日新聞の「ひと」欄に、尊敬する川口由一さんが紹介されていた。八十一歳になられた川口さん。久しぶりにそのお元気そうな顔を写真で見て無性にうれしい。その記事(1)、十年前に仲間たちと作ったDVD『自然農というしあわせ』(ゆっくり堂、2011)に寄せたぼくの「川口由一という物語」という文章(2)、またそのDVDの基になった2010年のインタビューの一部(3)を読んでもらいたい。 


(1)(ひと)川口由一さん 命の営みを大切にする「自然農」を探し求める

2021年2月12日

田畑を耕さない、肥料や農薬を使わない、雑草や虫を敵としない。自然に任せておけば、動植物が生まれ、死んで土にかえり、他の命を養う。こうした持続可能な農業のあり方を「自然農」と名づけた。無数の生命の営みにある「理」を43年間追い求めてきた。


三重と奈良の県境にある棚田で始めた「赤目自然農塾」が、3月で30周年を迎える。規則も月謝もなく、無償で学べる。これまで7600人以上が田畑を借りて学んだ。卒塾生は国内外62カ所で自然農を伝えている。


幼くして父を亡くし、中学卒業後に米農家を継いだ。化学肥料や農薬を当たり前のように使った。なぜか吐き気や発熱が続いた。農薬などの毒性物質について警鐘を鳴らした小説「複合汚染」(有吉佐和子著)が新聞に連載されていた。恐ろしくなった。


長女の誕生が転機となり、より安全な食べ物を育てるために自然農を始めた。最初は苗が雑草に負け、米は3年間実らなかった。試行錯誤の末、栽培方法を確立するまで10年を費やした。


いまは塾を後継者に託し、奈良県桜井市の生家近くで80種類の米と野菜、果樹を育てている。収穫量を増やすために環境に負荷をかける現代農業を憂える。「問題を解決するのではなく、問題を招かない生き方にこそ答えがある」。自然の道を外れないよう問い続ける日々だ。

(文・写真 小川智)





(2)川口由一という物語 辻信一


 世界中の農業は近代化の果てに、今やいのちの世界から遠く隔たった場所に行きついてしまいました。農と食は人類の生存の基盤そのものです。それが、市場競争の中にまき込まれ、さらにグローバルな自由貿易の渦中に放り込まれてしまったのです。中小の農家はより大規模な農場に吸収され、地域の自給的な農は姿を消し、農山村の人口の多くが都会へ流れ出ました。今や田畑は単一の換金作物を大量生産する工場のよう。効率化の先端にあるはずの先進国の農業は「十のエネルギーを投入して一を得る」という不効率の極みにあります。

それが私たちの時代です。かつていのちを育み、幸せな社会と幸せな人生の基盤を築くはずだった農的な営みが、人類の未来を脅かすものへと変貌してしまったのです。


そんな時代にあって、自然農とは何を意味するのでしょう? それは、こんがらがった糸をほどくように、農耕という営みの大もとへと辿り直すことにちがいありません。耕さない、肥料も農薬も使わない、動力機械も使わない、虫や草や鳥を敵としない・・・。そんなふうに余計なものをひとつずつ引き算していけば、しまいには、農の原形が浮かび上がるはずです。人間と大地とのあるべき関係がそこに再び姿を現すでしょう。


農業を超えて、川口由一さんの物語はすべての人に開かれています。それは、人が人として生きる意味を、人がひとつのいのちとして生きる意味を、そして人が個々の自分を生きるということの意味を語ってくれます。


世界はいよいよ曲がり角です。今こそ、川口さんの言葉に耳を傾け、その生き方に溢れている美しさや愉しさを見つめてみましょう。そこには、大転換期を幸せに生きるための智恵が詰まっています。


     

(3)生き方としての自然農


辻:自然農というのは、ある意味では単なる農業のやり方ではなくて、そういう文明の現状の中で人間が生きていくべき道を見つけていくこと。何の職業やるかという話ではないわけですよね。もっと総合的で、もっと根本的な生き方を示していると思うんです。こういう世界の中で、人間が人間としてどうやって生きていくか。その生き方を自然農だと呼んでもいいのでは。


川口:自然農は、すべての分野に通じます。農のあり方そのものが自然に添い、人としてのありようを示しているがゆえに、すべての分野に通じるわけです。いのちあるものとしての基本を自然農は示している、表している。そんなふうに言えると思います。


どこに幸せがあるのかということを明確にしないと、ね。どこに幸せがあるのか、あるいはどこに本当の存在の根底からの平安があるのか。簡単なことで、向こう側に幸せがあるのやないし、財をたくさん集めたら幸せがあるのでもないし、あるいは魂から安らぎがあるわけではない。この自然界に生かされているところで、そこから外れずに、人の道から外れずに、そこで足るを知ったらそこで生かされ続けるわけです。あるいはまたは与えてくれている自然界を壊さなかったならば、生かされ続けるわけです。そこで恵みをもらう術を身につけたなら、平和が約束されるわけです。我がいのちが、あるいは家族のいのちが。


人の道を、いのちの道を、我が道を得て、それからどこに幸せがあるのかということを明らかにして、その上でそれを生きる強さを養わないとあらわれないと思うんです。


辻:心を病んでどうにもならなくなっている若者がたくさんいる。それは韓国でも同じだそうで、日本と韓国は若者の自殺者が多いことで突出している。ぼくの周りでも心を病む人が増えているんですが、そういう人たちにどうしたらあきらめないで生きてもらえるのか、と。


川口:若者自身に向かうときは、その答えを示さないといけないんですが、若者の存在を受け止めてあげることだと思うんです。疲れきって、生きる意欲もなくなって暗闇のなかにいる若者が、ふとこの時代の背景の中から農業に関心をもつ若者がいるんです。そしたらその子の存在を受け止めてあげる。たぶん存在を受け止めてもらったことがないんじゃないかな、と思えるようなところで育ってきている。家庭でも、学校でも、何かに追いやられているわけです。がんばれ、がんばれとかいろいろ言われているわけですよ。その子の能力とか、その子のいろんなことを抜きにして、いのちを宿すその肉体の存在そのものを受け止めてあげる、あるいは尊重してあげる、尊敬してあげる。そういう接し方をしてあげるのが基本だと思います。諭したり、教訓をたれるのではなく、その子の存在を受け止めてあげるようなあり方。


何かうったえておられたら、その子の立場になって聞くんです。それがその子の存在を受け止めていることになる。その子の立場になっているということですよ。それが基本だと思います。道を求めて来る若者、道を見失っている若者ですので。見失っていても、見失っていなくても、人としてのあり方は向い合ったときに相手を尊重することです。自分で生きる気力をなくしている若者はそれを受け止めてもらうだけで勇気が出るんです。そこに安心を見出す。たとえば両親にその存在を受け止めてもらったことがない者、愛情を注いでもらったこともなくここまで何とかやってきた若者が、そのまま社会に出て、疎外感に襲われて途方にくれている。そんな若者が来たときに、ただ受け止めて上げる、尊敬してあげる、尊重してあげる。そういうやり方をしていればそれは必ず当人は分かるんです。自分は軽んじられている、疎んじられている、あるいは親心で接してくれているな、と。私の立場になってくれている、私を受け止めてくれている、と分かるんですね。それでいいんです。あとは自分で解決するんですよ。受け止められているという安心さえあれば。こうしなさい、ああしなさい、こうしなさいとアドバイスをくれなくても、自分の人生は自分でつくるんだ、そしてそれは楽しいことなんだって。


川口家の離れの集会室にて、2010年





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