• 辻信一

菊谷倫彦の言葉 (その2)

前回に続き、菊谷さんの本『無名なものの詩(うた)と革命』から、ぼくにとって特に印象深い箇所を抜粋する。本の後半では、後期の吉本に大きな影響を与えた三木成夫の生物学を糧として、菊谷さん自身のエコロジー思想へと進んでいく。読めば読むほど、お会いして、もっとお話したかった、という思いが募る。 辻信一




沈黙ーーただそこにあることの価値

沈黙はただの言語的価値だけでなく、人間の存在のあり方の根源と関わっています。存在の本当の価値は、他人に伝わるかどうかと言うコミュニケーションよりも、ただそこにいると言う存在の事実や沈黙と関わっています。一見すると何も意味しないのに、存在すること自体が価値であることがありうる、ということです。その本質的価値は、発語より劣るということはありません。  


三木成夫から吉本へ、そして菊谷へ

三木成夫は、植物的な働きは人間の内臓の働きとして、動物的な働きを体壁の働き(神経の働き)として、それぞれ捉えています。つまり、人間の内臓の働きは植物的な部分の名残りで、体壁などの神経の働きは動物的な部分の名残り、というふうに根拠づけられます。

・・・三木成夫は、こうした内臓感覚は・・・人間にとって無意識的なあり方である、と述べています。この働きがこころであり、沈黙に対応します。これは、脳に偏重した現代社会の心の考えとは違う、本質的な考え方です。

・・・沈黙は内臓と関わり、無意識という見えない小宇宙を形成している、といえます。


アフリカ的段階とアニミズム

吉本さんは、ヘーゲルとマルクスを受けて、人類の歴史をアフリカ的段階ーアジア的段階ー西欧的段階(そして超西欧的段階)と捉えました。そして、ヘーゲルが野蛮として切り捨てたアフリカ的段階の中に、これからの人類に大切な一つの母胎がある、と考えたのです。


表現する自然

そうした感受性は、自然界の存在を必ずしも人間と別のものと考えていません。自然界の振る舞いや存在そのものも、人間と変わらないある種の表現として見ることができる感受性だと思います。人間の振る舞いや存在だけでなく、自然界についても表現とみなし、この世界そのものを「表現」として内側から捉える感受性だと考えられます。

・・・これは自然と人間が連続し、内側で響き合った、一種のアニミズム的世界です。自然と人間が分断された、西欧的段階ではありません。


個の深化(”深歩”)=自然化

個としての人間は、成熟すると自らが「自然」になっていきます。まるで自然界の樹木のように、人が集い、移行場所のような存在になります。私たちは、現実の中で、そうした人を目にすることがあります。そういう人は、いわば、自ら<内なる自然>としての外の世界と響き合う、<理想的自然>になりえた人ではないでしょうか。・・・しかし、それは個を失ったことによるものではありません。むしろ、個を深めることによって自分のなかに自然をつくりだしているのです。いわば、自分のなかに<内なる自然>を見出し、外の世界と響き合っているのです。



自然と無名性

無名なものは、自分と他の存在を区別(差別)しません。優劣もつけません。すべての存在が等しく、かけがえのない固有の価値を持ちます。そして、そうした多元的価値によって作られた世界が、無名な者たちによって作られる(自然)です。

この世界を有名なものとして捉えるかぎり、<自然>を生きることはできません。それは<自然>本来の姿を捉えそこなっていることであり、存在に序列をつけることを避けられないからです。そこでは、人間同士の間にも優劣があり、人間と自然の間にも優劣が生じます。それは全てが同じ価値を放つ<自然>の世界ではありません。序列のピラミッドの中で上を目指して競争していく、「意味」の争いの世界です。


“深歩”の思想へ〜文明の転換期に際して

これからの時代は進歩の時代だと思います。常に前進するのではなく、深く歩んでいく時代です。


知恵と科学ー吉本批判

吉本さんは、「科学」と「宗教」が出会う場所として、知恵を語ります。・・・科学が発達して、人間が作り出すものが自然界そのもののようになれば、自然への妄信や救いの問題も解決し、科学と宗教は一致するだろう、というのがその考えです。

・・・しかし、私は、吉本さんの自然観や知恵の考え方を、そのまま受け入れられるとは考えていません。


・・・科学によって生み出されたものが、私たちの理想をすべて実現するとは考えられないからです。いくら先進的な技術であっても、人間や他の生き物を苦しめたり、快いものにしないものは、「自然」とも「知恵」とも呼べないのではないか。人間や生き物の存在を心地良くすることが、科学や技術の役割ではないのか。科学が人間の望みをすべて快く実現してくれるのだろうか。そもそも、非合理で有限な存在である人間が、合理性の体現である科学技術をコントロールし切れるのかどうか。コントロールし切れないものを推し進めていいのかどうか、という疑問があるのです。吉本さんの科学観は、科学と人間の存在が切り離されていない、牧歌的時代の科学観のようにも感じられます。


<世界>の見えにくい時代にできること 212

現代は、とくに都市部を中心に、<自然>や<世界>が見えづらい時代になっています。「社会」がそれらの上に蓋のように覆い被さり、実感できなくなっているからです。そのなかで、<自然>や<世界>を感じて生きるためには、まず、自分自身が問題意識をもって「社会」のなかを生きることが大切です。


違和感の芽を育てる

今すぐに「社会」から距離をとって、自分だけの時間や居場所をつくることができなくても、自分のなかで問題意識を持ちつづければ、それは<思い>となって熟してきます。そして、自分の意識のなかで、自分なりの感じ方(たとえば、現実への違和感の芽)が育ってきます。やがてそれは目に見える自分のふるまいとして現れてきます。そうなれば、「社会」への違和感を自分なりに表現しはじめている自分がすでにそこに存在するといえます。ひとつの違和感を手がかりに、自分なりに世界観を作り、<世界>から知恵を受け取って生きていくことができるように思います。


思いの火を絶やさず、守り、育てる

そのために大切な事は、思いの火を絶やさないことです。たとえ小さくてもいいから、灯った火を大切にし、その火を外界から守ってあげることです。最初は消えがちな炎でも、灯しつづければ、やがてたしかな光になり、思いそのものが自ら光を放つ力をもつように思います。そしてその火を、自分ひとりだけでなく、大切な誰かと一緒に守り、育てることも大切だと思います。 


ふるさととしての<自然>と<世界>

<自然>や<世界>は私たちのふるさとのように思えます。少なくとも、私たちのふるさとは「社会」ではありません。私たちは「社会」から生まれたわけではありません。学校も会社も国家も、私たちの現実生活を円滑に進めるためにもともとは生み出されたものですが、私たちが生まれ、帰っていく場所ではないのです。「社会」のしくみや成り立ちは、その時代によって変わっていきます。一方で、<自然>は、いつも同じ温かさで私たちの前に存在しています。・・・近代は、<自然>から「社会」を切り離し、後者を肥大化させた時代だったと思います。そこで得られたものもありますが、そのせいで、私たちは自分たち自身のふるさとを失ったのではないでしょうか。



家族と社会

私は、これからの時代、個人の力だけでなく、対幻想の力が大切になると思っています。具体的に言えば、家族です。<家族>は「社会」ではありません。<家族>と「社会」は、その成り立ちが異なります。<家族>をもとにした「社会」は存在しません。私たちは、社会という共同幻想の荒波に対して、その波に対抗するように、家族や大切な人を守っていかなければならないと思います。


家族・対幻想は幻想ではない、<自然>そのもの

社会にも国家にも、実体はありません。未来もないと思います。文字通り「幻想」なのです。一方で、対幻想や家族は幻想ではありません。リアルそのものです。共同幻想消滅のカギは、対幻想にあります。共同幻想と無縁に存在する家族と自分を大切にし、つい幻想や自分自身を共同幻想から切り離し、次の関係や家族の中で、お互いが自分を深めていくなかに大切な道があると思います。社会や国家が共同幻想であるのにたいして、対幻想は<自然>そのものだからです。



社会への想像力から、自然=世界への想像力へ

・・・日常のなかの想像力を、「社会への想像力」から、「<自然> (= <世界>)への想像力」へとつくり変えることです。その時、日常のなかに、「社会」だけでなく<自然>や<世界>が見えはじめ、生きる知恵が取り戻されるように思えます・・・それは言い換えれば、<自然>と直接つながり、そのなかを生きることです。<自然>とは、人間がつくり出す人為的社会の向こうがわにある世界のことです。人間が大規模な「社会」をつくり出す前の時代とも関係します。


先住民の知恵

なぜ、先住民の方々が、生きる知恵を現代にまで残すことができたのでしょうか。それは、私たちが「社会」をつくり出す前の時代からの知恵を大切に伝えてきたからだと思います。つまり、<自然>と直接つながっていた時代の想像力、感受性、知恵の記憶を、現代にまで伝えてきたからです。人間の歴史は、時代が進むにつれて、「社会」が大きくなり<自然>が見えなくなってきたように思います。しかし、私たちも先住民の人たちに学びながら、自然や世界について考え自分なりのテツガクをもつことで、現代のなかに生きる知恵を取り戻すことができるのではないでしょうか。・・・「アフリカ的段階」の可能性は、「社会」が出来る前の、先住民の人たちが生きていた世界観を、もう一度とり戻すことにもあるように思えます。それは、<内なる自然>や<世界>をとり戻す可能性です。


なにごとの不思議なけれど

薔薇ノ木ニ

薔薇ノ花サク。ナニゴトノ不思議ナケレド。

二薔薇ノ花。ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。

光コボルル 

(北原白秋『薔薇二曲』、引用は菊谷による)


無名なものの連なりとしての歴史

・・・一見無価値な、何でもない日や時間によって、私たちの日常は成り立っています。そして、そうした日附は無意味や無価値ではなく、最大限の価値があります。さらにいうと、そうしたなんでもない日や時間は、むしろ歴史の本質そのものなのです。そして、私たちの存在の本質そのものでもあります。私たちの存在は、今まで有史以来存在してきた、数えきれない、なんでもないような無名なものたちの連なりのなかにあります。その本質のなかに、私たち自身の存在の価値、世界の存在の価値という問題が込められています。


無名なものの革命 (「あとがき」より)

この本で書きたかったことは、生きて在ること自体が力である、ということです。そこには、有名も無名もありません。ある種の無名なものの力ということです。その力は、本来は革命的な力でさえあります。それが、無名なものの革命です。

・・・知識人や有名人が一元的価値をもつ時代は終わりました。これからは、多元的価値をもつ無名なものの時代だと思います。・・・本当の意味のアニミズム(人間もふくめたアニミズム)の実現の時代でもあると思います。もともと、大衆の原像も、無名なものの存在も、その本質は“<内なる自然>を生きている人”といえるかもしれません。そして“無名なもの”とは、私たちのなかにあるふるさとであり、ユートピアです。私たちがやってきた、懐かしい場所でもあります。



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