• 辻信一

ペマ・ギャルポの幸せ論 その1 



ペマ・ギャルポという人

2004年、ブータンを調査のために初めて訪れたぼくを案内してくれたのが、ベテランのツアーガイドであり、自ら「エンシェント・ブータン」というツアー会社を設立して間もないペマ・ギャルポだった。ぼくたちは意気投合、兄弟と呼び合う仲になった。以来、日本からの手作りエコツアーを企画・実施しながら、グローバル化の波を受けて急激に変貌し始めたブータンのこれからについて、一緒に考えてきた。


2009年、ぼくはペマの出身地であるブータン東南部ペマガツェル県チモン村を訪ねた。当時は電気もなければ、車道もないという奥地の村で、首都ティンプーから車で四日、歩いて二日かかった。初めて訪れる外国人であるぼくを、村人たちは、まるで異国の王様のように大歓迎してくれたものだ。いつの間にか、彼らが言う“前世の縁”をぼくも受け入れ始めていた。


2012年、この村を舞台に、在来コットンの文化を再生するプロジェクトを立ち上げた。衣食住の自給を軸とするローカル経済を再確立することで、ブータンにおけるひとつの発展モデルにするのがペマとぼくの願いだ。

ここで、ペマの略歴を紹介しておこう。


ペマは誕生日を知らない。実は、歳も定かではない。でも、それは彼の世代のブータン人には珍しいことではない。生まれ育った奥地の村には、自給自足の暮らしと伝統文化が何百年も続いていた。大きな変化の兆しが現れたのは、彼の少年時代だった。ある日、王国政府の役人がやってきて、彼の両親にこう言った。山の向こうにつくられた「学校」というところに、息子のペマを送るように、と。


昔からの労働奉仕の一種だと考えた両親は、家にとどまるように息子を説得した。しかし、それから数年、選ばれて学校へ行った子どもたちが、休暇で村に帰ってくるたびに、知らない言葉を喋ったり、こぎれいになっていたり、何やら不思議なオーラを身にまとっているのに、ペマは衝撃を受けた。そしてこう疑い始めた。世界には何やら大きな変化が起きているのではないか。それなのに自分は山奥で、それも知らないまま、何らかの大切な機会を逸しているのではないか。



「学校」という場所の意味を理解し始めたペマは、家出を決意、間もなく山を越える。両親がそのことを知ったのは2か月後、失踪した息子の死を覚悟した後だった。寄宿学校で数年が経ち、ある時ペマは、ふと鏡に映った自分の顔に、うっすらと髭が生えているのに気づいた。何歳か年下の同級生が、彼のことを「アッパ(おじさん)」と呼ぶのが、やっと腑に落ちた。すでに、学校の勉強が自分に向いていないと思い始めていた彼は、間もなく学校を後にして、もっと広い世界を目指して旅立った。


首都ティンプーでしばらく過ごすうち、ペマは「観光」というものがあることを知った。ブータンの外にある世界のことを学校で習ったが、その外の国々から人々がブータンのことを知りたいと思って、やってくる。そんな彼らを案内するガイドというものが必要とされていることを知り、それは自分にうってつけの役目ではないか、と思うようになった。

早速ガイドを志望したが、ガイドになるには仏教の知識が必要だという。そこで彼は思い立って南インドにあるチベット仏教の僧院に修行に出た。


やがて、帰国したペマは、海外からの観光客のために国を開いたばかりのブータンの公認ツアーガイドの一人として働き始めた・・・


ペマ語録


2014年、熊本市で行われたフェアトレード国際会議の招きで来日したペマは、関東から、関西へ、そして南九州へと旅をしながら、各地で開かれた交流会や講演会で話をした。回を重ねるごとに、舌は滑らかになり、話にも磨きがかかる。例えばこんな調子だ。


日本人はとにかく忙しい。いつも時間がないと言っている。日本人は世界最高の時計をつくるが、肝心の時間がない。ブータン人は時計をつくれないが、時間だけはたっぷりある

各地で日本の印象を問われた。特に「ブータンは幸せの国」という噂を聞いている人たちには、ペマの目に、日本人が幸せそうに見えるかどうかが気になるようだ。ある集まりで、彼はこう答えた。


失礼を承知で正直に答えます。大都会では、日本人は人間というよりロボットに近い



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