「あとがき」のマナーには外れるかもしれないが、ぼくが2004年に書いた次の文章をまず読んでいただきたいと思う。それは、「あの夜、ぼくは水俣の海辺へ加勢に行った」と題され、2005年冬号の雑誌「環」に掲載された文章である。緒方正人が好きな「加勢(かせ)」という言葉が、今でもぼくの気分をよく表してくれているように思うから。
----かんじんなことは、目に見えないんだよ。(『星の王子さま』より)
肌寒い雨の横浜から九州へ向かう間中、水俣の天候が気になっていた。博多駅に降り立った時には、その猛烈な湿気と暑さに驚いた。まるで、二週間前に滞在していた沖縄の離島、西表(いりおもて)みたいだ。しかも、晴れている。緒方正人の自信に満ちた顔が目に浮かぶ。それは「ほら、言っただろ」と言わんばかりだ。水俣に近づくにしたがってますます青空が増してゆくようでさえある。不思議だ。台風がやってくる方角に向かって列車は進んでいるはずなのに。
新水俣駅に着く直前、降車口のところで後ろから声をかけられた。熊本市に住む知り合いだった。「今日はお能のためにわざわざ?」「ええ、加勢しに来ました」「それはご苦労様」。ぼくはこの「加勢」という言葉が使いたかったのだ。それを使うことができてホッとした。何かこれで、自分が今ここにいるということを納得できる気がする。
会場の埋立地に向かうタクシーの中で、何も知らない運転手に今日の催しについて説明する。妙な気分だが、加勢人だから仕方がない。「ヘーえ、あげんところで能ですか」。
タクシーを降りるとそこに緒方正人がいた。羽織、袴で盛装した彼を見るのは初めてだ。この暑い夏を経て一層日に焼けた顔の皮膚にも、興奮の色が隠しようもなくにじみ出ている。そそくさと動くさまは、まるで結婚式直前の新郎みたいだ。
「正人さん、台風は……」と、ぼくが言いかける。すると彼は勢い込んで「そう、念力で押さえ込んであるけん」と応じて、背後に広がる不知火海の方を指さす。陽は西に傾き、青空に浮かぶ雲はみるみるうちに色を帯び、あたりのものはみな濃い隈どりをもち始める。光り輝く海の中に、夕焼けを背負った恋路島が黒々と横たわり、こちら岸には能舞台が息をひそめるようにして日の入りを待っている。
開演までまだ時間がある。ぼくは群集から離れて、水辺でひとり鮮やかな夕焼けを眺め、振り返っては芝生に立ち並ぶ石の野仏たちが赤く染まってゆくのを見た。そして、かつてこのあたりを共に歩いては緒方正人と交わした会話を思い出していた。
今ぼくが立っているのは、ほんの十数年前に埋立てられるまでは海だった場所。水俣病を引き起こしたチッソ水俣工場からの廃液がヘドロとなって海底に堆積したのもここ。正人はこの埋立て地を「苦海の墓」と呼び、1990年、そこを舞台として構想された開発計画に対しては、「水俣病事件を無きものにせんとする謀略」として反対し、熊本県知事と水俣市長にあてて、これに「身命をかけて闘う」とする「意志の書」を発したのだった。
さらに1995年はじめ、正人は石牟礼道子ら有志と共に「本願の会」を結成、その発足にあたっての挨拶で、「魂たちが集う場所」である埋立て地の草木の中に野仏さまを祀り、終生の祈りの場とすることを呼びかけた。彼は言った。「私どもは、事件史上のあるいは、社会的立場を超えて、共に野仏さまを仲立ちとして出会いたい、その根本の願いを本願とするものでございます」。
同じ一九九五年の六月、正人は沖縄へ旅をして、写真家で民俗学者の故比嘉康雄さんの案内で、森に囲まれた聖地、御嶽(うたき)を巡った。そして彼は受難の地としての水俣湾の埋立て地が、現代の御嶽として蘇るというビジョンを得た。
日が沈み、夕焼けの空が急速に色を失っていく。虫たちが一斉に鳴き始める。呼びかけ人として緒方正人がまず挨拶に立つ。作者、石牟礼道子の挨拶がそれに続く。深まる闇の中に溶け始めていた舞台背後の恋路島が照明を受けて一挙に浮かび上がる。その近さがぼくたちを驚かせる。「今、私たちがいるこの場はかつて生きものたちが豊かに栄えた海だった」と語る正人と石牟礼の言葉が、静けさの中に余韻となって留まっている。準備怠りないことを確認するとでもいうように、一羽のサギが飛来して頭上を旋回すると、急に速度を上げて南へ飛び去った。
恋路島について正人はぼくにこう語ったことがある。昔ハンセン病患者を隔離するために使われたこともあったが、その後は無人島として自然のままの姿をとどめている。水俣病事件のおかげで開発の手が届くこともなく、埋立て地が目の前まで迫った今も原始の森をそのまま残している。ここにあってずっと水俣という場所で起こってきたことの一部始終を、静かに見守ってきた。それは聖なる島だ、と。
能舞台が佳境に入る頃、月が我々観衆の背後、うすい靄のカーテンの向こうに現れる。上空に星がひとつ。ドラマが急展開して舞台が華やぐ。もう夜の闇は深い。やがて雲がほどけて星が増えていく。照明が暗くなる度に、舞台上の夜光虫の精霊たちがそれぞれささげもつふたつの光の玉が浮かび上がる。怪物が舞台に登場して石を打ち合わせる。ぼくは子どものようにうきうきし始める。
主人公である不知火(しらぬい)の弟、常(とこ)若(わか)からぼくは目が離せなくなる。どこかで見たことのあるその清らかな姿は、『星の王子さま』のものだ。いつの間にか、舞台が背後の海や恋路島と溶け合って、ひと連なりの時空をつくっている。ぼくは突然、目に見えないものを見ているのだということを了解する。
そしてその時、ぼくはもう一度、十年前の正人の予言を思い出した。「わがふるさとである不知火の海が、悪魔の降り立つ場所として選ばれたというのは本当のこと。しかしです。悪魔が降り立つ場所というのは、同時に神が降り立つ場所でもある。いや、そうしなければならんのです」。
* * *
本書には長い来歴がある。その過程を通して実に多くの方々のお世話になった。そのお名前を今ここに列挙することはしないが、改めて心よりお礼を申し上げたい。まず本書の基になったのは雑誌「思想の科学」での1995年6月から11月までの連載である。それに書き下ろしを加え、『常世の舟を漕ぎて 水俣病私史』(世織書房)という単行本として出版されたのが1996年。
次に、この世織版に新たな聞き書きを加え、また全体に少なからぬ変更を加えた上で英語に翻訳され、叢書“Asian Voices”(Series Editor: Mark Selden)の一冊として、2001年にアメリカで出版されたのがRowing the Eternal Sea: The Story of a Minamata Fisherman(Rowman & Littlefield)である。2000年には雑誌「週刊金曜日」にも特集記事として新たな聞き書きが掲載された。
2000年代に入って世織版は品切れ、絶版状態となり、入手が困難になっていった。再刊の話をいくつかの出版社や編集者からいただいたが、どれも具体化しないまま時がすぎた。2011年3月の東日本大震災と福島の原発事故を経て、今こそ日本語版を蘇らせて、再び緒方正人の言葉を世に問いたいという思いはつのったが、しかしこれまた様々な理由によって、再刊計画が先延ばしとなり、ようやく本書の出版に至る具体的な作業を開始したのは2018年2月であった。
そして、今こうして、昨年2月、本年1月の新しい聞き書きをも加えた、ようやく本書が出来上がることとなった。雑誌連載から、25年間をかけてじわじわとでき上がった本書を、単なる「増補版」ではなく、「熟成版」と呼ぶ所以である。
もちろん、これほどまでに時間がかかってしまったことについて、自らの不甲斐なさを感じないわけではない。しかし、わが師でもある思想家のサティシュ・クマールが言うように、何ごとにも遅すぎるということはないのだろう。「私が到着した時こそがちょうどいい時なのだ」。
この二十数年とは、世界の危機がぼくの想像をはるかに超えるペースで深まりゆく月日だったが、それは同時に、緒方正人の思想が着々と深まり熟成していく日々でもあった。こうして今でも、その彼の身体からほとばしり続ける言葉を書き留め、それを一人でも多くの人に送り届けるという仕事に「加勢」できることはぼくにとってこの上ない歓びだ。
「思想の科学」での連載以来、『常世の舟を漕ぎて』という本が歩んだ“旅”の先々で、様々なご縁をいただいた多くの“加勢人”のみなさんに感謝したい。ここではただほんの数名の名前を記すにとどめさせていただく。英語版の翻訳を手がけた、日本研究者で翻訳家であるカレン・コリガン=テイラーには翻訳だけでなく、編集でもお世話になった。世織版に「序」をプレゼントしてくださった今は亡き石牟礼道子のもとに本書をお届けできないのは残念だが、きっと常世にて喜んでくださっていると思う。
心の通う友人たちの励ましと協力なしに、本書の刊行は実現しなかった。特に編集・制作・出版を引き受けてくれた上野宗則とSOKEIパブリッシングの皆さん、20数年来の最も良き読者であり、今回すすんで編集に協力し貴重な「解説」を本書に添えてくれた中村寛に感謝する。
最後になったが、スローなぼくに愛想を尽かすこともなく、長い間辛抱強くつき合ってくれた緒方正人に謹んでお礼を申し上げる。彼の存在は今も灯台のように、暗い世界に一条の光を投げかけている。
2020年年2月
横浜にて 辻信一
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