ぼくは国葬をナマケる。そう、それがいちばんしっくりくる。
国葬も、国葬をめぐる状況も、ばかばかしく思える。英国のも、日本のも。英国の女王の国葬の様子を大真面目で長々とライブ中継したりする日本のテレビは、一層、情けなく、それを熱心に見ている多くの人々のことを思うと悲しくなる。まるでオリンピック中継だ。安倍元首相の場合には、その裏に蠢く政治的な思惑や駆け引きがあまりによく見通せてしまうことに、こちらが戸惑うほどだ。芝居じみていると言えば、確かにそうだが、それもあまりに当たり前すぎて口にしたくない。国葬とは、そもそも大がかりな芝居なのだから。今回の問題はその舞台裏があまりに透け透けだということだ。猿芝居というと猿に失礼だろうか?
とはいえ、ぼくだって、国葬を仕組む権力者たちの思惑の危険性を過小評価しようとは思わない。バカバカしいと言ってソッポを向いていてはいけない。バカバカしいと言って選挙を棄権することは、ぼくはしない。国葬反対のデモには共感を覚える。行ってみてもいいと思う。ただ一方で、「反対」を叫ぶことが、かえって国葬を通じて何かを達成しようとする権力の思うツボとなりうることも考えておきたい。昨日も「反対」を主張して焼身自殺を図った人がいたという。うーむ、これはいただけない。こういう憎しみに満ちた激しい表現が、あの銃撃事件という暴力と共鳴するかのように、かえって国葬をやる側の「民主主義を守る」というレトリックを補強してしまいかねない。
ぼくがこの間、共感を覚えた二つの記事を紹介したい。「国葬をナマケる」というアティチュードを身につけるためにも、参考になると思う。一つは九州大学の憲法学者、南野森の議論(「「たかが国葬」と言うために 法的根拠、あえて持たせない知恵」2022年9月17日朝日デジタル)だ。
南野は、「法律上の根拠がないから国葬はできない」という議論に対して、法律の根拠がいらないとされ、閣議決定だけで決められる政府主催のさまざまな記念式典などの儀式を例に挙げて、どこからが権力の濫用にあたるかという厳密な線引きは困難で、解釈によって評価が分かれてしまう、と指摘する。だからといって、では、国葬を法制化すべきだという意見があるが、それこそ危険だと南野は言う。
「法律上の根拠ができてしまうと、民主的な正統性、権威があがるということです。これは日の丸・君が代でも明らかです。閣議決定だけで行われる儀式と法律で定められた儀式は、格が違う。それこそ、法律上の根拠のある儀式ですから、弔意を示すなどの要請には従ってくださいとなりかねません」
でも、今度の「国葬」は閣議決定にしかすぎない。
「だからこそ、たかが国葬ごとき、と言えることが大事だと思います。法律で決められておらず、法律上の根拠がない。その点は重要です。政府の決定するものの中では、非常に重要度の低いものだということです・・・それゆえ、国民に対して一切、義務を課したり、権利を制約したりできないわけです。これに反対する自由は当然あるし、無視する自由もあるわけです」
とはいえ、これまでも、法的根拠なしに姑息に、これは「命令」ではなく「要請」だと言いながら、いろいろな政策を押し通してきた自民党政府らしいやり方で、半旗掲揚や黙禱を求めることもあり得る。南野が恐れるのは、「お上」に弱い国民が「命令」と「要請」の区別ができないまま、コロナ対策の時と同じように、同調圧力の下、権力からの「要請」に諾々と従ってしまうことだ。
さて、南野自身は国葬に対して反対なのか、賛成なのか。そのあいだなのか。彼は最後に、こう言っている。
「私自身は国葬には反対です。安倍さんという政治家への評価も大きく割れるなかで、『国全体』で弔うという表象を内閣が作り出すことには賛成できません。国葬が弔意の強制や押しつけの前例になってほしくもありません。・・・だから、国葬ごとき、たかが国葬というスタンスでいるということに一定の意味があるのではと思うのです。『法律上の根拠はないんでしょ。閣議決定でやっているんでしょ。我々国民は別に従う必要はありませんよ』っていう割り切り方に意味があるんじゃないかと思うのです」
次に、朝日新聞の「国葬考」という連載インタビュー記事の一つ、作家の赤坂真里の議論(「「自民を弔う葬儀」に見えてきた」、2022年9月20日 )に注目したい。国葬の空虚さと、自民党や安倍元首相の政治的言動の本質的な空虚さを見事に重ね合わせてみせてくれるのは痛快だ。とはいえ、「この空洞がどこへ向かうのか」という結びの言葉が重く響く。以下、赤坂の発言から抜粋して紹介する。
一国の元首相が、殺され、しかも銃で撃たれるという、尋常でない亡くなり方をしました。そこで岸田首相はとっさに『民主主義の敵による暴力によって倒れた偉大な国民的政治家』を演出しようとしたのではないかと思います。『偉大な政治家が自民党にいた』ように『見せる』ための国葬。それが最初のアイデアではないか、と。
何もうまくいっていないのにうまくいっているように「見せる」ことは安倍元首相の言動の本質だったと私は感じています。オリンピック誘致のスピーチで原発事故の汚染水問題について『the situation is under control(状況は制御できている)』と言ったのは象徴的です。その態度を、岸田首相も無言のうちに引き継いでいる感じがしました。
自民党の「中身のなさ」が明らかになりつつあります。本当は既に終わっているのに、終わっていないように見せかけてきた自民党の実態を、銃撃事件が暴露した。空虚さが白日の下にさらされたのです。
元々理念が何もない党だということです。米国の要請で日本を「反共のとりで」とし、米国の言うことをなんでも聞く。それを自発意思でやっているように国民に見せかけてきた政党です・・・自民党が掲げる「保守」や「愛国」の実態は、最初からよじれていました。もし本当の保守であったなら、市場自由化と改革に血道を上げるはずがありません。愛国であったなら、外国の軍隊が駐留することに賛成しません。むろん、日本を従属的な地位に置く旧統一教会と手を組みません。
この国葬は大きな負債を残し、もしかしたら岸田政権の命取りとなるかもしれません。安倍氏の葬儀のはずなのに、安倍氏の「死」というものは遠くに忘れられ、功績をたたえる声も、悲しむ声も聞こえなくなっています。もはや誰のための国葬か、決めた岸田首相にさえわからなくなっているのかもしれません。
私には「自民党自体の葬儀」のように見えてきます。安倍氏は「保守」や「愛国」をめぐる自民党の元々の混乱、戦後日本の複雑なよじれを一身で体現する近年唯一の首相だった。そういう意味では、安倍氏は「自民党を弔う国葬」の象徴に向いてはいる。
しかし、その後に何が起きるのでしょうか。歴史を振り返れば、人々は大きな空洞の後に別の何かを求めてきました。自民党に代わる勢力もない中でこの空洞がどこへ向かうのか、国民には、今が正念場であり、そして今が危ないとも言えるのかもしれません。
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