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執筆者の写真信一 辻

アイヌとして胸を張って生きる  貝澤耕一


貝澤耕一 2022年8月30日、二風谷チコロナイの森にて

1992年11月末、今からちょうど30年前、10数年ぶりに日本に戻ってきたばかりのぼくは、友人知人たちと組んで、「もう一つのコロンブス500年 いま行動する先住民族の英知と出会う」と題した国際会議を企画し、開催した。登壇者でもあった萱野茂さんやチカップ美恵子さんの他にも、何名ものアイヌの方々がその会議に参加してくれたが、耕一さんもその一人だった。彼と初めて会ったのは、その年の2月はじめ、雪の降る二風谷、彼の父、貝澤正さんの葬式でだった。喪主として甲斐甲斐しく立ち働く耕一さんの姿を、ぼくはただ眺めていたのだと思う。それでも、農業一筋でそれまで政治活動に関わることのなかった耕一さんが、あの場で、父の遺志を継いで二風谷ダム反対運動に立ち上がる、という決意を語ったのを覚えている。今

思えば、それは、いかにも彼らしい”ひねくれた”言い方だった。「だって、やるしかしょうないっしょ!?』


「もう一つのコロンブス・・・」会議の最中に、耕一さんにお願いしてインタビューをさせていただいた。それをもとに、翌93年に冊子にまとめられた報告書の中に掲載させてもらった文章を今回改めて書き起こし、わずかな修正を加えたものを、ご本人の了解のもと、ここに何回かに分けて掲載させていただく。





私はアイヌだと胸を張れるだけ幸せだ

貝澤耕一インタビュー 


現在

今はただの農業です。まあ目標は百姓だけどね。僕にしてみれば、百のこと出来るだけに一生の間になれたらいいなあと、そしたら最高だなあと思っているよ。


いろいろだけども、一番多いのが米かな。米が今年は12ヘクタール、その他に畑が10ヘクタールくらいで、ジャガイモ、トウモロコシ、カボチャなど。その土地をほとんど二人でやってるんだよ。まあ忙しくなれば、人手を借りるけどね。家族は、かあちゃんに息子と娘が一人ずつ。息子は今、札幌近郊の大学に通ってて、娘は高校3年だ。


幼少時代のこと

子どもの頃は体が弱かったからな。アイヌ自体が伝染病にものすごく弱かったことということもある。アイヌは全体に生活が貧しく、親が子どもをよくみることができないこともあって。以前、「北海道開道100年」なんていう記念行事をやってたけど、アイヌ以外の人間が北海道へどっと入ってきて百数十年。その前はほとんどアイヌだけの生活だった。だから、 伝染病に対する抵抗力がなかったんだな。僕の家からは山も川も近かったから、遊ぶったら、夏は川、ほかは山だろうな。魚つりもやったな。冬はスキーやスケートをして遊んだ。


4人きょうだいだ。弟が途中で死んでしまった。上に姉が1人、下に妹が1人。


家は屋根がかやぶき、壁は板で、夏は涼しく冬は寒い平屋。二風谷は雪は積もってもせいぜい50から60センチだから、雪の心配はないね。でも冬は寒い。最高で零下30度までにもなるかな。でも昔のアイヌの家って全部がかやぶきでしょ、あれは寒くないはずよ。つくり方さ。かやっていうのは中に空間があって、それを厚くすれば 断熱効果があるわけさ。そして床も全部地面からずっと干し草を敷き詰めて高くするでしょ。そういうつくりだったから寒くなかったんだろうと思うよ。今度つくって経験してみるわ(笑)。


夏は暑い時で30度ぐらい。温度差が激しいから北海道の食べ物は美味しいんですよ。昼間温かいからそこで活動して栄養分を蓄えるでしょ、夜ぐっと気温下がると活動しないで、昼間蓄えた養分を逃さないから美味しいんだな。


家のまわりで家畜を飼ってて、ニワトリはいたし、農耕馬はいたし、それから犬、猫、豚、牛なんかがいた。生活の必需品ちゅうのはほとんど自給できた。ばあちゃんは美しいアイヌ紋様の服なんかをつくってたけどね。でもそういう刺繍されてる服っていうのは、儀式の時しか着ない。だから普段は、僕の知ってる範囲の段階では、すべて普通の日本の洋服さ。


みんなデパートなんかに年に2、3回は行ったんじゃないの。そのころは札幌まで行かないとなかったみたいだけど、今よりはるかに公共の交通手段はよかったけど。というのは、今では路線バスとか電車とかいう公共交通は田舎ではだんだん減ってきているんだよ。だから、北海道の田舎は車がないと歩けないということだ。


学校教育

同化政策のもとで進められてきた日本語教育だけど、僕が学校に行くころには抵抗なかった。普通の文部省認定の教科書使ってた。学校は日本の子もアイヌも一緒だったよね。二風谷はアイヌが多いから、生徒の割合はだいたいアイヌの生徒が8割くらいだったかな。同じ言葉をしゃべるけど、やっぱり見た目でかわるさ。アイヌではない人のことをシサム(隣人)っちゅうんだけど、僕らが小学校の頃は、そのシサムの連中っていうのはもう完全に差別意識もっているから。僕らの方もお前らとは別格だっていう意識はもってた。


でも遊ぶのは一緒よ。普段楽しく遊んでいる時は、そんなこと考えないんだけど、でも何かあるとパッと分かれちゃう。喧嘩なんかするとね。どこか遊びに行こうっていうとき、先頭切るのはたいがいシサムの子だよ。みんなに命令を下してあれやれ、これやれって。それにシサムの方が経済的に裕福だしね。あれやれ、これやれって言われても、アイヌの子どもは、「ああ。ここでこいつらの言うこと聞いときゃ、お菓子分けてもらえるな」とか、そんな単純な考えだよ。自分の家庭では買ってもらえないようなお菓子もってたりするでしょ、シサムの子は。それがうらやましかったりね(笑)。


アイヌが貧しかった理由

アイヌは狩猟採集民族だったでしょ。そこへ日本政府が農業を押しつけてきたわけだ。そしたら、農耕の手段も何も知らなかったから、アイヌの生活が貧しいのは当然なんだよ。日本人はもともと農耕民族だから、外から入ってきた人たちは農業っていうものを分かっているでしょ。だからどんどん裕福になっていくのは当たり前のことだ。


名前について

ずっと日本名さ。ひいじいさんの時代にもうすでに日本名にさせられていたし。貝澤という名前の由来は簡単よ。二風谷に二枚貝がたくさんある川があったんでね、貝のある沢(澤)があるからって、そこに住むアイヌに貝澤ってつけたんだ。だから貝澤がいっぱいいるんだな。だから小学校の頃は、先生は名前で呼んでいたね。だいたい名字からアイヌってわかるんだよ。昔、アイヌにつけられた名前といえば、近くでは、貝澤、平目、平村、二谷。どうゆう意味でつけたか知らんけど、昔の役人てのは傲慢だから、アイヌなんて字も意味もわかんないでしょ、だから適当にここはこうだってまとめてつけたんでないの。酔っ払って姓をつけたという話もあるみたいだし。


アイヌ語について

もうずっと日本語で生活してきたから、アイヌ語を聞く機会はまずなかったね。もう今なんて、英語かどこかの外国語を習うようなもんだよ。親との会話ももちろん日本語だしね。親もアイヌ語は分からなかったしね。だから、アイヌ語をまともに話せたのはばあちゃんだけだったな。じいさんは、アイヌが差別されないで生きるためには日本の政策に乗るしかないという人だったから。本当は話せたのか、話せんかったのか。じいさんがアイヌ語話すのを一度も聞いたことがないから。じいさんは徹底的に日本の政策、日本の風習を学ぼう、そして教え込もうとしてたから。そんなんだから、うちでは普段はアイヌ語は出ない。ばあちゃん同士でしゃべるときは出たかもしれんけど。


中学時代

中学は平取町の中心部の学校だったから。あそこは小学校三校が集まるのかな。そこ行くとアイヌはもう完全な少数派さ。一割ぐらいでないかな。二風谷(小学校時代)でいると、多数派の優位でアイヌちゅうことをあんまり意識しないで済むんだよ。中学校行った途端に少数派でしょ。そして、今でもそんな雰囲気あるんだけど、二風谷っちゅうだけでアイヌっちゅうことに結びつけちゃうわけよ。だから結構いじめられたりなんかする子も多かったしな。今はそうでもなくなったけど一番差別用語として使われるのは、”あ、犬が来た”。生活が貧しかったから服装もある程度、汚れた雰囲気があるんだよな。不潔とかそういう意味じゃなくて。そういう服を着てる子どもが気分的に弱いところへ、そう言われると、なお落ち込んでいく。だからそういうことで学校行かんくなった子どもも多かったよ。今はなくなったけど。先生だって、触らぬ神にたたりなしっちゅう感じで。これほんとの話かどうか知らんけど、平取の学校に赴任してくる先生に教育長が最初に何を言うかっていったら、「アイヌのことには口を出すな、なるべく避けて通れ。」と、そういう言い方をするらしい。


進学

17歳から、18キロ離れた高校へバス通学。高校は受験だな。受験たって田舎の高校なんて勉強しなくても入れる(笑)。そこへ行くか、あとは都会へ出て受験するかしかないから。僕は頭よくないし、金もないし。勉強するのもいやだったし。自分の能力をちゃんとわきまえているから(笑)。高校は就職と進学コースに分かれているだけ。どっちだったか覚えてないなあ。でもきっと進学なんだ。高校になると、アイヌはクラスに1人か2人。かなり減ったね。というのは、僕の二風谷小学校の同級生っていうのは15人ぐらいしかいない。中学校行った段階で、長欠児童でほとんど学校来なかったのがその中に4人ぐらいいたんだよね。結局、15人のうち全日制の高校行ったのつったら、たった3人。高校に行けなかったのは、ほとんど経済的な理由だね。子どもも自分のうちの状況知ってるから、行きたいって言わないよ。そのころは、全国の進学率が70~80%でなかったかな。ウタリ協会が出した資料に載ってたけど、うちらアイヌの進学率が大体3~4%でなかったかな。


僕は親がただ行かせてくれたから、行けたっちゅうだけで。うちの親の方針としては、アイヌがシサムに追いつくには、もう今の時代じゃ学問しかないと。知識をつけて、広い世界を見て、そして追いついて行くほかないという考えだから、教育の方には目を向けたと思うよ。親はそう思ってたみたいだけど、僕は、あっ、仕事しなくてすむから行こう、行こうと(笑)。得意だったのはスポーツかな。親として、僕にアイヌとしての誇りを持ってほしいとかいう意識はなかったんでないかな。誇りを持つか持たんかは本人次第だもん。ただ、知識を身につけて、広く見れる目を養っておけば、勝手に生きるだろうという意識さ。僕もなぜ勉強したかって言ったら、シサムに負けるもんかっていう意識があったもん。


日本人であること、アイヌであること

「家で日本人とアイヌという話題は、まぁ、しょっちゅう出てくるよ。差別されたっちゅう噂話とかそういうのは、もういやっちゅうほど聞いてる。一番多いのは、アイヌと日本人が結婚する時でないかな。反対されてできないっていうことが多い。例え本人同士が好きだって言っても、アイヌだからダメって絶対言われる。反対するのはアイヌ側じゃなくて、日本側さ。学校でいじめられたとかいう話は出なかった。というより、僕はほとんどいじめられなかったんだよな。というのは、やっぱりある程度暮らしや何かが先に進んでたからだろうと思うけどな。勉強ができたかは知らんけど、中学の頃は生徒会とかいろいろやってて。だから逆に言うと、アイヌからは嫌われてたんでないの。僕の場合は。日本人の側についてるように見えるし、上の方を歩いてるような雰囲気だったんでしょ。同じ二風谷から通って来てるアイヌの同級生とは、あまり接する機会がないんだな、生徒会の役員なんかやってると。だから、そういう面で離れていったっちゅうことはあるかな。そういうことは気がついていたけど、そこまで考えれる力がなかった。みんなと一緒になれないし、なんか避けられてる雰囲気あるなっちゅうのは分かったけど。


大学進学

周りはみんな進学進学って騒いでるけど、うちには行くだけの金ねえしなと(笑)。金ねえからどうしようと思って、金のかからん学校探して。今はもうなくなったけど、江別の酪農学園。そこの短大。学校で勉強するのは冬5ヶ月で、夏は行かなくていいっちゅうところで。その代わり、短大の資格のために3年間行かなきゃならなかったけどね。別に家が農家だったから行ったわけじゃなくて、ただ単に行くとこないし、金も安くて、自分の金で行けるところはどこだと探して見つけた。一年の残りの月は、家の百姓を手伝ってさ。つまり4月から10月いっぱいは家で百姓やって、11月から3月まで学校行って。


きつかったなあ。毎日4講だったもの。土曜日も。日曜日は休みだけど。学校では土壌学と水稲と、あと酪農を勉強した。酪農科だよ。酪農一般の理論と実践と。僕たちの時でもその学校は本州の学生が3分の2を占めてて、アイヌなんて1人だよ。僕が進学した頃は、アイヌの大学・短大進学率って今みたいに高くなかったからね。希少価値だから、先生にでもなればよかったって後悔してるよ。どうせなら民族学でも教えたりしてね(笑)。今は、自分がアイヌだから、民族とか人権とかの問題に興味をもって、独断と偏見でわめいているわけだけど・・・



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