数日前に、下関〜九州への10日あまりの旅から戻り、あくる日、いすみのブラウンズ・フィールドで行われていたシューマッハー・カレッジ@ブラウンズ・フィールドに一泊で行ってきた。コロナ禍直前の去年2、3月以来の長旅だった。
7月9日には、糸島の「お山の楽校」を訪ねた。今では糸島に四つもあるフリースクールの先駆けだそうだ。この日、学校の裏に広がる傾斜地の森で行われていた皮むき間伐に参加させていただいた。この間伐法については噂に聞いて注目していたが、実際に体験するのは初めてだった。間伐、しかも傾斜地でのそれには様々な困難が伴うというイメージがあったが、ぼくが着いた時には、何本かの杉の木の周りに、数人の子どもたちと一人、二人の大人たちからなる組が集まって、せっせと働いている。まずは樹皮に切り込みを入れて、そこから、少しずつ周囲を剥がしていく。子どもたちはみんな熟練の大工さんのように確信に満ちているように見え、周りには一種の威厳さえ漂っている。ちょっとでも手のあいた子にはどこからか、声がかかって、「〇〇、ここ一緒にやろうよ」。もちろん、ぼくには声がかからないので、しばらくはどこにも入り込む余地がない。一本の木の樹皮が10〜20センチずつ、ひと回り剥がされたところで、その木の周りに全体の半数くらいの子どもと大人がある待って、それぞれが剥がれた樹皮の下端をもって、四方へと後ずさりしながら引っ張って、少しずつ木の上方へとペースを合わせて剥がしていく。まるで、アメリカのアーミッシュの人々がみんなでロープを引っ張る棟上げの作業みたいだ。作業と儀式とが、仕事と遊びとが渾然としているのも、多分、アーミッシュと同様だ。背の大きさ以外に、大人たち(生徒の親たちと三人の、“先生”とは呼ばれない先生たち、そしてぼくの長年のアクティビスト仲間で、皮むき間伐を広めている“ふじいもん”)の仕事ぶりと、子どもたちの仕事ぶりには、(少なくともぼくには)違いが見えない。ぼくもやっとのことでこの作業=儀式の仲間入りをさせてもらった。この日、皮むきされた木の中で、最も高くまで切れることなく樹皮を剥がしとった栄えある仕事の一員であれたのはよかったが、最後の最後で、引っ張っていた樹皮が手元で切れたはずみに、もんどり打って倒れたのも、ぼく一人だった。やれやれ。いったいどのくらい高くまで剥がしたのか、と子どもたちが言いはじめ、ではどうやって測ったらいいか、と木の上の方を見つめながら考え始める。しばらくしてから先生のトミー(子どもたちにそう呼ばれている)が、じゃあ、剥がした樹皮を測ってみたらどうかと提案すると、そうだそれはいい考えだとばかり、何人かが畳まれていた樹皮を伸ばして、それに巻き尺を当てていく。するとそれはちょうど15メートルだった。
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