ここ数日、ハガキを書く機会があったので、「猛暑、豪雨、コロナ、オリンピック・・・諸禍、お見舞い申し上げます」と書いた。これを読んでくださる、あなたにも。
前回、少しばかり『スロー・イズ・ビューティフル』から引用したので、ついでに、同じ第8章「ぼくたちはなぜ頑張らなくてはいけないのか」から、もう少し、読んでいただこう。
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・・・一九六四年のオリンピックを思い出す。それは少年だったぼくにとって忘れがたい強烈な経験だ。大げさと言われるだろうが、ぼくより上の世代の戦争体験にも似ているとぼくは勝手に思っている。
その日に間に合うように購入したカラーテレビで開会式を見ようと、近所の人々が我が家にやってきていた。興奮に少し上ずったアナウンサーの声。アジアの、ニッポンの、東京の空の下に初めてひるがえる五輪旗。終戦の年に広島に生まれ、戦後逞しく成長し、すらりと伸びた長い足をもつにいたった最終聖火ランナー。戦争の象徴から平和の象徴へと変身した天皇の開会宣言。乱れ飛ぶハト。
それはよくできた物語だったといえる。近所の人々はみな泣いていた。ぼくの心も高ぶっていた。今思えば恐らくそれはこういうことだったろう。ぼくたちは皆一体感を感じていたのだ。ともにひとつのストーリーを生きているという一体感。廃虚の街は繁栄の都に生まれ変わり、貧しさは豊かさへと、破壊的な戦争は平和的な競争へと変換される。それは「奇跡」の物語。奇跡の復興、奇跡の経済成長。この物語に心酔したのが日本人ばかりでなかったことをぼくは後に知る。世界中を被いつくそうとする「成長」と「開発」のイデオロギーが、東京オリンピックに恰好の寓話を見出していた。今よりも明日は、来年は、次世代は、そして未来は、よりよいものになると、人々は信じることができた。だから頑張ろう、きみもぼくも。
・・・(中略)・・・
ぼくたちは健全者にも障害者にも、自分自身に対しても、「頑張れ」と言い、「頑張ろう」と言う。それも非常に頻繁に。(このことばを西洋語に訳すのが容易ではないところをみると、そこにはアジア、あるいは日本の文化的、社会的特性が関係しているかもしれない。しかし、それはここでは問わないことにしよう。) 同じ「頑張れ」でも、障害者に向けられる「頑張れ」が一層頻繁に、そして一層熱っぽく、力をこめて、声高に言われることはいわゆる健常者たる我々にも容易に想像できる。それはなぜだろう。
一般に「頑張る」ということばは、競争を前提にしている。「頑張って」は「負けないで」と、ほぼ同義といえるだろう。ぼくたちはいつのまにか人生を一種の競争に見立てているのではないだろうか。競争とは何か。それは一定の目的{ゴール}に向かって勝敗や優劣を競い合うこと。人生のゴールが何であれ、我々は人生という名のレースを走る。「頑張れ」は、ともに同じレースを走る者同士の挨拶であり、励ましであり、牽制だ。
しかし、健常者が障害者に「頑張れ」と言う時、そこには同情とともにかすかな罪の意識が潜んでいるのではないか。なぜなら、「このレースは障害者にとってフェアではない」という認識があるから。しかし、そう思いながらも健常者はこう言うしかない、と感じる。「このレースはフェアではないが、しかしそれでも君はレースを続けるしかない。なぜならそれ以外には生きがいのある人生はないだろうから」
だから健常者は、脱落もせずにレースに居残りつづける障害者や、不利をものともしない障害者を賞賛せずにはいられない。心のどこかにわだかまっていた罪の意識も、「頑張って障害を克服した」人々を前にして、一瞬解消するように感じられる。そして、そうした人々の存在に励まされ、あるいは叱咤されるように、「自分もまた彼らに負けぬように頑張って人生というレースを続けていこう」と思う。なぜなら「それ以外には生きがいのある人生はないだろうから」
「頑張る」ということばは戦争を連想させる、と宇宙塵は言う。確かに、社会が戦争(そしてオリンピック?)している時ほど、人々が「共通のゴール」に向かって生きているのを実感できることはないかもしれない。「国家総動員」のそんな時、障害者はまっ先に「足手まとい」として抹殺されるだろう、と彼は危惧する。近代史でもナチスがやっている。しかも、優生思想なら、この平和ニッポンでさえ刻々と強まっているのではないか。「これからは役に立つ障害者と役に立たない障害者とにはっきり区別される社会状況になっていくと思う」と宇宙塵・・・
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