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執筆者の写真信一 辻

8月15日、終わりと始まり

8月15日を前に、韓国文学者で翻訳家の斎藤真理子の「8・15、終わって始まった日」という記事が新聞に載った。そこにはぼくの好きな在日朝鮮人作家・歴史家の金達寿(1917〜1997)のことが書かれていた。


一九四五年五月二十九日の横浜大空襲によって、神奈川新聞の本社社屋は全焼した。当時そこの記者で、二十五歳だった作家の金達寿(キムダルス)は、もう一人の朝鮮人記者とともに職を失った。そのとき社長が二人を自宅に呼び、日本は負け、朝鮮は独立するだろうと告げたという。


そして八月十五日、一張羅の背広を着て友人たちとラジオの前に集まった金は、天皇の放送を聞き、「独立するんだ!」と立ち上がって叫んだ。翌日からは在日朝鮮人の自治組織作りに取りかかった。


だが朝鮮半島は、金が思いもしなかった方向へ引きずられていく。八月二十四日にはソ連軍が平壌に、九月九日にはアメリカ軍がソウルに進駐する。猛烈な、満身創痍(そうい)の混乱期を経て一九四八年、南北に別々の政府が樹立され、やがて朝鮮戦争が始まる。多くの在日コリアンが帰国のタイミングを失った。


『金達寿小説集』には、在日朝鮮人作家の先駆けだった金の三十五年あまりの足跡が収められているが、年ごとに、八月十五日の希望から隔たっていく苛立ちや悲しみが読みとれる。

 

「対馬まで」は一九七〇年代に旧友たちと対馬に旅をした記録だ。観光旅行ではない。政治的事情から韓国の故郷に足を踏み入れることができなかった彼らが、対馬から一目釜山を見るための旅だった。薄青い山影を見て、金は思わず「ボヨッター! ボインダー(見えた! 見えるー)」と叫ぶ。


金は後に故郷訪問を実現し、そのため激しく批判された。このこと自体が、大きく見れば分断

の傷口の一つかもしれない。以後、古代日朝関係史の研究と紹介に軸足を移し、日本文化の中の朝鮮を隠蔽する「帰化人史観」を批判し「日本と朝鮮・日本人と朝鮮人との関係を人間的なものにする」ために尽力した。


記事の後半で、戦後の勧告を描いたイ・ヒョンの『1945,鉄原(チョロン)』、チョン・セランの『アンダー、サンダー、テンダー』という二つの小説を紹介した斎藤は、文末にこう言っている。


「八月十五日は終わりだっただけでなく、始まりでもあった。三十八度線が一九四五年に引かれて七十六年。今もその現実とともに人々は生きている。」(8月14日朝日新聞)


あの8月15日に始まった新たな分断は今も続いている・・・。金達寿の『わがアリランの歌』(中公新書)を引っ張り出して、読み直してみる。彼の半生を描いた自伝だが、その最後のシーンは同じ8月15日である。


…(八月)十五日になると、正午に天皇の放送があるという。「玉音放送」などということばもはじめて聞くものだったが、そんなことなどはどうでもよかった。「これでもう戦争は終わりとなるかもしれない」と私は妻の福順に言い、古い一張羅の背広をださせて、ゆっくりとそれを着た。私はできるだけ盛装をしたい、と思ったからであった。


金は、同じ朝鮮出身の友人たちとともに、彼の兄の家に集まって、その「玉音放送」に聞き入る。


十二時、生まれてはじめて聞く天皇の放送がはじまったが、雑音がひどくて、はじめはなにを言ってるのかよくわからなかった。万に一つでも、「本土決戦」などと言いだすのではないかというそんな不安もあって、私たちはその声にじっと耳をそばだてていた。言っていることはだんだんはっきりしてきて、やはり戦争は終わった! 終わるというそれであった。

放送が終わると、車座になっていた私たちは、しばらく顔を見合わせたままだまっていた。やがて私たちは一挙に爆発し、「これで朝鮮は独立するんだ!」「独立するんだ!」とみんな立ち上がって叫んだものだったが、しかし、それがまた新たな苦難への出発であるとは、このときはまだ誰も知らなかった。



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